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東京高等裁判所 昭和45年(う)695号 判決

主文

原判決を棄却する。

被告人は無罪。

理由

〈前略〉

事実誤認、法令違反の主張について

所論はいずれも本件事故のあつた水戸街道のような交通混雑の道路においては、道路交通法第二六条所定の車間距離を保持することは不可能であり、被告人が約八米の車間距離を隔てて前方を同速度で進行する幌付貨物自動車に追随進行したことをもつて過失があるものとはいい難い。先行車が突如左急転把したので被告人が危険を感じ急停車の措置を講じたが、先行車の蔭から道路を横断すべく自転車に乗り進行してきた小沢万平(当時八〇歳)を至近距離に発見して衝突させるに至つたとしても、被告人に過失はなく無罪であるというのである。

よつて記録を調査し、当審における事実取調の結果をも加えて考察すると、被告人は昭和四四年八月一日午後〇時四〇分頃普通乗用自動車を運転し、墨田区向島五丁目先道路(車道幅員17.6米の通称水戸街道)を言問橋方面から四ツ木橋方面に向い、時速約四五粁で先行する幌付普通貨物自動車に追従し約八米の車間距離を保つて進行し、同所の交通整理の行なわれていない交差点にさしかかつたのであるが、先行車が減速して急に左方へ進路を変更したので、先行車を見ながらブレーキを踏み、前方を見ると先行車が進行して行つた右側すなわち自車の進路の直前に、自転車に乗つて道路を左から右に横断すべく進行中の小沢万平(当時八〇歳)を発見したので更に強くブレーキを踏んだが、既に至近距離であつたために間に合わず、自車前部右側の同人及び自転車に衝突させて転倒させよつて頭蓋内損傷により死亡するに至らせたものであることを認めることができるところ、

原判決は「かかる場合自動車運転者としては、先行車が左右道路から同車の進路上に進入してきた車両を避けるため、方向転換したとき、自車もその進入車両を避けるため、急停止または方向転換できるように、先行車との車間距離を保持して進行すべき業務上の注意義務がある」のに、被告人はこれを怠り先行車と僅か約八米の車間距離を保つたのみでそのまま毎時約四五粁の速度で進行したため右事故を生じたものとして過失の責を問うているのである。しかしながら道路交通法第二六条第一項所定の車間距離保持の義務は、車両等が同一の進路を進行する他の車両等の直後を進行する場合においては、その直前の車両等が急に停止したときにおいてもこれに追突することを避けることができるため必要な距離をこれから保たなければならないとするものであつて、急停止をする先行車との関係における追随車の義務を規定したものであり、本件のように先行車がその前方を横断中の車両等との衝突を避けるため急に進路を変えて進行した場合にその横断車両等との関係において衝突等の事故の発生等を防止するため右追随車に課せられたものではないと解すべきであるから、本件における過失の有無を右車間距離保持の義務の観点から論ずるのは相当でないといわなければならない。しかして、本件現場交差点附近は、歩行者の横断、車両の転回が禁止されている場所であつて、車両等の運転者においてその進路を横断する歩行者、車両等があることを予想して運転する必要は必ずしも高くはない道路であるから、むしろ道路を横断しようとする自転車等軽車両の側において交通の安全に十分な注意を払わなければならないところ本件被害者は高齢にも拘らず自転車に乗つて同所の道路を横断し始め、これを発見した先行の貨物自動車が急停止または減速徐行して被害者を避譲横断させる余裕はなく左に急転把して進行することにより辛くもこれとの衝突を避けることができたほど唐突に先行車の進路直前に飛び出したものと認められるのであつて、このような事態は、先行車に追随進行する車両運転者の通常予見し難いところであるからかかる事態をも予見して事故の発生を防止すべき注意義務を負うものではないといわなければならない。されば被告人にかかる事態の予見可能性があることを認めてこれを前提として業務上過失致死の責任を問うた原判決は、事実を誤認し、法令の適用を誤つたものといわなければならず、この誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかであるから論旨は理由がある。

よつて爾余の控訴趣意に対する判断をまつまでもなく、本件控訴はその理由があるから、刑事訴訟法第三九七条、第三八二条第三八〇条により原判決を破棄し、同法第四〇〇条但書により被告事件につき更に判決する。

本件公訴事実は、

被告人は、自動車運転の業務に従事しているものであるが昭和四四年八月一日午後〇時四〇分頃、普通乗用自動車を運転し、東京都墨田区向島五丁目三三番九号先の交通整理の行なわれていない交差点を言問橋方面から四ツ木橋方面に向かい時速約四五粁で進行中、同方向に進行中の普通貨物自動車に追従するにあたり、進路の前方左右に注意を払うはもちろん右先行車の動静を充分注視して同車が左右道路からの車両を避け急停止または方向転換をした場合でも、これに即応した措置がとれるよう安全な車間距離を保持して進行すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、約八米の車間距離を保持したのみで漫然前記速度で進行した過失により、右先行車が前方の障害物をさけ減速の上急に左へ進路を変更した直後、前方を左方から右方へ向かつて進行し、既に進路上に立ち入つていた小沢万平(当時八〇年)運転の足踏式二輪自転車を約一五米先に発見し、急停車の措置をとつたが間に合わず、右小沢運転の足踏式二輪自転車に自車の前部を衝突させて、同人をボンネット上にすくい上げた上約一三米前方路上にはね飛ばし、よつて同人をし、同日午後五時五〇分頃同区同町四丁目四番一〇号浮島病院において、頭蓋内損傷により死亡するに至らしめたものである

というのであるが、前段説示のように被告人の注意義務違反を認むべき証拠がなく、犯罪の証明なきに帰するので、刑事訴訟法第三三六条により無罪の言渡をすることとし、主文のとおり判決する。

(遠藤吉彦 青柳文雄 菅間英男)

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